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May 2008

早大理工と筑波大医学群が連携、何をもたらす?

早大・筑波大:早大入学でも医師 両大提携、理工から筑波大編入
http://mainichi.jp/life/edu/news/20080521ddm041100003000c.html
※追記: 現在はリンク切れ
プレスリリース(早大、筑波大の順)
http://www.waseda.jp/jp/pr08/080520_p.html
http://www.tsukuba.ac.jp/topics/20080521112852.html

スペシャリストやゼネラリストの存在は重要だが、そういった人たちを寄せ集めただけでは解決できない問題は、変化の激しい現代に数多く存在する。
先の日記で取り上げた環境問題はその典型で、他にも医療など、枚挙に暇がない。
スペシャリストやゼネラリストを束ねる人(プロジェクトマネージャのような存在)がいればいいだろうという考えもあるだろうが、それでも不十分なことはある。
以前、私は「ヴァーサタイリストとポリヴァレントの共通点、そして重要性」(http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post-52bc.html)という記事を書いた。
その中で出てきた、複数の分野に精通し、かつ視野も広く、そしてなにより臨機応変に活動できる、まさにヴァーサタイリストやポリヴァレントな人材の育成のために、今回の早大・筑波大連携によるデュアル・ディグリーがあるといっても過言ではないだろう。
そのデュアル・ディグリーが具現化したのも、変化の激しい現代を生き抜き、また数多くある未知の問題を解決するためにも、そうした制度で学んだ人材が必要になる、という考えがあってのものかもしれない。

今回のデュアル・ディグリーは医学と理工学の2つであるが、医学と(理)工学の融合は今に始まったことではない。
情報工学系の学部に属する研究室で、人工骨などの医療工学や、医師を支援するシステム(コンピュータ支援診断システムなど)、あるいはバイオインフォマティクスといったことに取り組んでいるところは、数えればいくらでもある。
また、複数の分野に詳しいという意味では、例えば大学では法学や工学などを学んだが、その後MBAを取得し、経済にも精通しているなどのビジネスパーソンも珍しくない。
デュアル・ディグリーとは異なるが、2つの異なる分野の大学院が連携するという動きもある。
例えば、岐阜大学と岐阜薬科大学が連携した、創薬医療情報研究科である(http://www1.gifu-u.ac.jp/~rensou/)。
複数の分野が連携し、様々な研究に取り組むという流れは昔からあったが、それが大学院の連携という形で現れることが、今後は増えるかもしれない。

ただ、今回の早大と筑波大の提携に関しては、疑問に感じる点がある。
理工学群がある筑波大であれば、自分たちだけでも2つの学位を持つ人間を育成できる。
それにもかかわらず、何故早大と組んだのかが、プレスリリースを読んでもはっきりしない。
もしかしたら、医学部を持たない早大の意向が強く働いたのかもしれないが。

とはいえ、面白い試みであることには変わりないので、今後はこのようなことに取り組む大学が増えてくるだろう。
医学や工学などでよくある単科系の大学が連携して、あるいは法学部や経済学部などを有する総合大学が単独で、デュアル・ディグリー制度を進めていくのかもしれない。
こういった流れが進むのは、個人的にはいいことだと思う。

後の問題は、学費と時間だ。
延べ8年ということは、博士課程の2年まで学んだのと同じだけの時間がかかっているということだ。
その間の経済的負担も大きいだろう。
奨学金制度などを充実させないと、志ある学生がデュアル・ディグリー制度を利用できない、なんてことになるだろう。
そして、さらに専門的なことを学ぼうと思ったら、もっと時間がかかる。
早大・筑波大の場合、理工学は学士止まりのようで、修士や博士を取ろうと思ったらさらに時間と費用がかかる。
それでも、医学部に関しては6年の課程を編入学により4年に短縮できるのだから、それなりにメリットはあるといえばあるのだが。
また、今回の早大・筑波大の制度を使って医学部を卒業後、医学博士になろうと思ったら、さらに4年がかかる。
そのため、さらに学問を究めたいという人への支援(奨学金、就職支援など)も、考える必要があるだろう。

地球温暖化と格差是正は同時に解決できるのか

未来の温暖化より今の貧困? ~ 「100万円」の優先順位
http://wiredvision.jp/blog/ishii/200805/200805290800.html

記事前半で筆者は、会員制図書館の「アカデミーヒルズ」年会費100万円と年収100万円の人を対比し、「100万円を年間の図書館代に使える人と、年収100万円である人が一体感を持つこと、そして共同で何かを成し遂げることは難しいでしょう」と論じている。
その後、温暖化問題の写真展に触れ、『100万円の図書館を使う人、そしてそれ以外の人では、「写真の受け止め方は違うのではないか」』と論じている。

記事の後半では、まず小泉政権以後、規制緩和と競争促進により強いものはより強くなったが、格差が広がったことを挙げている.
また、安部、福田各政権は「格差の是正」と「温暖化対策」を掲げるも、「これら二つの問題は、解決に必要な時間軸、そして対応に必要なエネルギーのベクトルが違います」と筆者は述べる。
貧困に悩んでいるのに、地球を救うための負担を受け入れられるのか、とも述べている。
「温暖化を止めろ」「日本はヨーロッパと比べ温暖化の危機感がない」と主張する人たちがいる中、日本政府は「2050年に温室効果ガスを半減させる」との目標を掲げる。
筆者はこれらの意見に賛同しつつも、優先順位を考えろ、と主張している。
記事の流れはやや強引な気がしないでもないが、考えさせられるものはある。

ただ、数年で起こる可能性は低いだろうが、石油など様々な資源がなくなる、気候の温暖化が加速する(一方で、温暖化が進むと今度は寒冷化を誘発する、という見方もあるようだが)など、地球が人間の住めないような環境になってしまっては、貧困も裕福もあったものではない。
本当に長い目で見たら、国や裕福さなどに関係なく、自分の立場に応じて、地球温暖化を防ぐためになにかしらの我慢や負担は必要だろう。
そのために、京都議定書の下で温室効果ガスの排出を減らそうと各国が取り組んではいるが、一方で発展途上国側にしてみれば、「先進国はこれまで好き放題温室効果ガスを吐き出していたくせに、今度は減らせというのは、身勝手だ。我々も経済成長したいし、その過程で温室効果ガスを出したっていいだろ」というような考えもある。
本当にこう考える発展途上国はそれこそ身勝手極まりないが、一方で先進国は今まで自分たちが犯してきた地球温暖化へ対する罪を滅ぼし、自分たちはもとより発展途上国に対しても、経済発展と地球温暖化防止の両方を成し遂げられるような政策やビジョンを出すことも必要だ。
そうしなければ、発展途上国の不満は募り、地球温暖化防止の協力は得られないだろう。

一方、生活に困っているいないに関係なく、電気や石油などを節約する、無駄なものを買わないなどで、お金の無駄遣いも防げるだけでなく、地球環境にも優しくできる。
それは企業活動でも同様で、たとえば環境破壊の防止とコスト削減を両立できるような技術などが進めば、地球にも企業にも優しい状況が生まれるだろう。
見方を変えると、環境問題の解決を経済発展へ結び付けられる、ともいえる。
環境問題の解決と経済発展が結びつけば、必要以上の格差を是正することにもつなげられるだろう。
ただ、現実はそれほど甘いものではない。
省エネ技術も現時点では限界に近づいているというし、省エネ商品への買い替えが進んで景気が上がっている、というわけでもない(もっとも、まだ使えるのに買い換えると、その製品を作るために資源をいっぱい使うだけでなく、古い製品を捨てる際にリサイクルし切れなければ、残りはごみになってしまう)。
それでも、環境問題の解決と格差是正も含めた経済発展の両立を図らなければ、我々に未来はないだろう。

学生と経営者の討論でわかるICT業界の問題点

・「10年は泥のように働け」「無理です」――今年も学生と経営者が討論
http://www.atmarkit.co.jp/news/200805/28/ipa.html

「IT産業が国際的な飛躍をめざすために学生に期待すること」がテーマらしいが、現時点で日本のIT産業は積極的に世界へ打って出ている状況ではない。
日本の企業なんかには見切りをつけ、海外の有名企業へ就職すれば、というのは酷な期待であろうか。

「全体の完成、ゴールのイメージが沸かない」という疑問に対し、「若いうちは1つの仕事を与えられても、そこから全体が見えるようになるまでは時間がかかる。それでも、知る努力をしなければいけない」というのはもっともか。
「仕事をするときには時間軸を考えてほしい」との発言もあったが、それが自分の仕事のみならず、業界の姿などをより良く知ることにつながるのかもしれない。

また、討論で出た企業側の欲しい人材は「貪欲(どんよく)に学ぶ気持ちを持っていて、環境適応力が高い人」だという。
一方で、記事後半にある通り、学生時代学んで欲しいことに文書作成能力やコミュニケーション能力があがっているが、これらはできて当たり前という。
それだけに、企業の欲しい人材に「コミュニケーション能力が高い」などが含まれなかったのかもしれない。

他にも、英語の勉強の重要性も。
このことは繰り返し説明しなくても十分だろう。
ただ、学生からは「日本企業にも海外との接点を作ってくれないと意味がない。企業は海外の人を招致しているのか」との声も。
これには、役員が日本人ばかりの企業からはろくすっぽ反論できず。
本文によれば、田口氏は「日本の学生はぬるま湯につかっていて頼りないという話になっていますが、実は日本の企業もぬるま湯ということですね」とまとめたようだ。

記事本文ではほかにも、有賀氏?が
> 大きなシステムの構築などの仕事では、個々人の突出したスキルではなく、チームワークが重要だと主張した。
らしい。
チームワークが重要なことは論を待たないが、一方で烏合の衆が集まってチームワークで仕事を進めることにも限界はある。
上のテーマに限らず、結局は個人技もチームワークもどちらも重要である。
両方を高める努力をし、かつバランスを取ることが大切だろう。

ヴァーサタイリストとポリヴァレントの共通点、そして重要性

最近になり、ようやく「フラット化する世界」(原題: The World Is Flat)の増補版を読了した。
ピューリッツァー賞を3回受賞したというトーマス・フリードマンの著で、世界がフラット化した10の要因、世界におけるフラット化の実例、特に会社における例をいろいろと取り上げている。
原著の増補版が出たのが2006年4月、翻訳版はほどなく出たので、すでに読んだという方もいるだろう。
本の感想をこと細かく書いていくと文章がどこまでも長くなりそうなので、ここでは1点に絞って感想を書く。

下巻P. 28の「偉大な適応者」(適応者には「アダプター」とルビが振られている)で、なんでも屋(「バーサタイリスト」とルビが振られている)について書かれている。
これはガートナー・グループ(本文では「テクノロジー関係のリサーチとコンサルティング企業」と説明)が考え出した、「IT産業には特化した社員よりも、適応能力が高い多芸多才な社員を求める傾向が強くなっていることを言い表す言葉」(下巻P. 28)である。
本文ではさらにガートナーの研究を引用している。
重要なところなので、省略せずすべて書く。
「スペシャリストは技術力が高いが、視野が狭く、仲間内では認められるような専門技能に長けているが、分野を離れたところではあまり評価されない。ゼネラリストは視野は広いが、技術力は低く、対応して行動するのはまずまず迅速だが、十分な技倆(ぎりょう)を示すことが出来ず、同僚や顧客の信頼を得られない場合も多い。これに対して、なんでも屋は、持ち場や経験の範囲が徐々に広がるのに合わせて技術力を応用し、新たな能力を身につけ、人間関係を築き、まったく新しい役割を担う」
さらに、EDSの企業アーキテクトであるマーシア・ラフリーの「オートメーションとアウトソーシングによって仕事をむさぼり食らう勢力に、つねに一歩先んじるようにした」との発言も取り上げている。

なんでも屋の説明は、私がblogで何度も取り上げてきた(本文末尾参照)、ポリヴァレントとも通じるものがある。
と同時に、私と同じようなことを考えていることが他にもいることを知り(しかも私なんかよりもずっとすごい人)、心強く思うだけでなく、自分の考えが間違っていなかったことが確信できた。
私の考える「ポリヴァレント」は、「複数の強みを臨機応変に発揮できる」人間である。
単に器用なだけでは、オシム・サッカー日本代表監督(当時)が使って以来、ポリヴァレントの言葉が真っ先に浸透した(今はあまり使われないが)サッカーやバスケットボールなどで言うところのユーティリティプレイヤーと、ほとんど変わらない(当初は私も誤解していた。サッカーの世界では、両者はきちんと区別されるが、サッカーに疎いことを差し引いても私は理解不足だった)。
あくまでも「持ち場や経験の範囲が徐々に広がるのに合わせて」身に付けた「複数の強みを臨機応変に発揮」することで、「まったく新しい役割を担う」ことに、ポリヴァレント(polyvarent)、ヴァーサタイリスト(versatilist)の意味があるのだ。
日本代表(というか浦和レッズ)の阿部勇樹、鈴木啓太のプレイを想像してもらえればいい。
※参考: [インサイド・ストーリー] 阿部勇樹×鈴木啓太 交錯する赤い光跡。
http://number.goo.ne.jp/soccer/japan/682/20070712-3-1.html

では何故、ポリヴァレントやヴァーサタイリストが必要なのか。
再度「フラット化する世界」から引用すると、それは「オートメーションとアウトソーシングによって仕事をむさぼり食らう勢力に、つねに一歩先んじる」必要があったからかもしれない。
ただ、それだけではないだろう。
私は、「フラット化」その他の要因で変化の激しい世界を生き抜くためには、特定の分野に固執していてはダメだからだと考えている(結局、上で引用したことをもっと一般化した、もしくは言い換えただけかもしれないが)。
とはいうものの、まず最低でも1つの分野のスペシャリストにならなければいけないという考えも、私にはある。
1つのこともろくにできない人間が、やれポリヴァレントだ、やれヴァーサタイリストだと負け犬の遠吠えのように繰り返しても、笑止千万だからだ。
しかし、自分がスペシャリストに辿り着いた頃にはその能力が何の役にも立たなくなるのではないかと不安に思うほど、現在の社会は変化が激しい。
ただし、例え急激な変化があったとしても、どのような分野でも通用する基礎的な専門性であれば、いつまでも磨き続けることが出来るし、またそうしなければならない。
例えば、情報工学・計算機科学を長く学んだ人間であれば、英語、数学、ソフトウェア工学やプログラミング能力といったものになるだろうか。
そういった基礎的専門性を、まずは1つ、そして複数身に付け、さらに応用的専門性も会得することで、ヴァーサタイリスト、あるいはポリヴァレントへ近づけるのだ。

知識だけで頭でっかちな人間が生き残れるほど、今の世界は生易しくない。
そのことは肝に銘じなくてはいけない。

参考
http://en.wikipedia.org/wiki/Versatilist

参考記事
・ポリヴァレントな人間を目指して
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post-56e6.html
・「多様性」を考える
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post-d5fa.html
・スペシャリストかつゼネラリストを目指すには?
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post-1dd9.html
・法科大学院と「ポリバレントな人材の価値」
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post-b318.html
・参加者が明かすIPAフォーラムの裏話
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/ipa_1ce1.html
・ポリヴァレントな人材を育てる方法
http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post-33eb.html

高齢障害者にも光を

高齢社会における「自立した生活」―英国における障害者への支援―
http://www.mizuho-ir.co.jp/column/shakai080513.html

障害者が自立して生活していくというのは、現状では難しいようである。
高齢者であればなおのこと。

本文では、(イギリスが出した報告書において)「そこで障害者が「自立した生活」を送るためには、日常生活に必要な支援へアクセスできることや、各種サービスの選択や管理を障害者自ら行なえることが重要である。これらを満たして「自立した生活」になると指摘されている」とまとめている。
そのために、障害者が自分の状況に応じたサービスの情報提供を受け、最後は自分でサービスを選択する仕組みを、イギリス政府が用意するという計画があるようだ。
費用負担ははじめは増えるが、長い目で見ると負担軽減につながると、調査にはある。
「予防に向けたサービスや個人に適合したサービス提供によって、医療・介護費の抑制を期待できる」のが理由のようだ。

報告書では、高齢障害者の社会活動参加にも触れている。
筆者の分析では、「英国は、障害のある高齢者が能動的に活動できる社会に変えることで、高齢化を乗り切ろうとしているようだ」とある。

最後の段落にある、「高齢者が多い社会は、障害のある人が多い社会でもある」はやや短絡的でなんともいえないが、「障害を活動の妨げとしないために公的支援はどうあるべきか、まずはビジョンが求められている」については同意できる。
また、「縦割り行政の弊害」に触れ、「国の計画書は、保健省、交通省、雇用年金省など6つの中央官庁が一緒になってまとめたものである」ことを指摘している。
上記記事の筆者の文を借りれば、「ビジョンを構築して省庁を束ねていく点で、まさに政治の力が試されている」。

とはいえ、残念ながら、日本においては「縦割り行政の弊害」が依然として残っているようだ。
各省庁は様々な報告書を出しているが、連携して報告書を作ったという例は私の知る限りなく、まだまだ各省庁が独自に動いているというのが現状だ(私もとある仕事で某施設を訪れたとき、1つのテーマについていろいろな省庁が訪問してきた、という話を聞いた。1つの例だけで判断するのは近視眼的であることは承知しているが、縦割り行政の弊害が依然として残っているとの指摘を裏付けるものではある)。
障害者の問題に限らず、いくつかの省庁が連携して何か1つのテーマに取り組めば、多くの人たちをいい意味で巻き込むことができ、よりよい解決策を作り出すことにつながるだろう。

最近、私は映画版「1リットルの涙」をDVDで観た。
その中で、障害者は誰かに頼らなくてはいけない、主人公も「社会の役に立ちたい」うんぬんのくだりが出てきた。
社会に出たいという障害者はいるが、現状は難しい面もある。
障害者それぞれで事情は異なるが、障害が重くて社会参加自体が難しいこともあれば、障害者の社会参加を促す仕組み、あるいは健常者の理解が進んでいないなど、問題点を挙げればきりがないだろう。
特に、生まれつきの障害者に限らず、成長の過程で、あるいは高齢者になってから障害者になった方も含め、社会で生かせるものを持つ障害者は数多いだろう。
そういった方たちを生かすことは、ダイヴァーシティ(多様性)により社会の活力を生み出そう、という動きにも通じる。

そのためには、医療費の負担とも絡む問題ではあるが、障害者への支援をもう少し増やすと共に、社会参加を促すことにも取り組む必要があるだろう。
ただし、税金の無駄遣いをなくしてもなお財源が確保できないのであれば、増税も必要となる。
とはいえ、同じ増税であってもこういった方面に「確実に」使われるのであれば、受け入れられるだろう。

後期高齢者医療制度が「貧しい人への負担を強いるもの」と批判されているが、それと同じことを障害者、特に高齢障害者に対して行ってはいけない。
もし行った場合、遠い将来、自分が高齢障害者になったとき、自分の首を絞めることになるだろう。
とはいえ、高齢障害者はなんともいえないが、社会保険料を自分で払っても十分な生活が送れるくらいの収入が得られるほど、障害者への社会参加が進めば理想ではあるが、その道は遠い。

ICT技術者が尊敬されない理由と教育の問題点

日本のIT技術者が尊敬されなくなってきた――IPAイベントから
http://www.atmarkit.co.jp/news/200706/28/ipa.html

今から約1年前に開催された、IPAX2007での「IT人材の育成」をテーマとしたパネルディスカッションの模様より。

「IT技術者の仕事は、いまはクリエイティブではなくなってしまった――これがIT企業が学生に不人気な理由ではないだろうか」と上記記事にはある。
ただ、クリエイティヴなら人気が集まると考えるのはあまりに短絡的過ぎる。
職種によっては限界もあるだろうが、「クリエイティヴ」かどうかは個人の考え方次第で決まることもあるからだ。
記事では、(以下本文の要約)開発を受託する大手SIerは要件定義やシステム設計などの上流工程の業務中心で、コーディングは下請けが行うことを取り上げると共に、IT業界の「ゼネコン体質」にも触れている。
こういった体質がクリエティヴィティを奪っている可能性があることは、私も同意できる。
また、行き過ぎた「ゼネコン体質」は、ICT産業に蔓延する「奴隷売買」まがいの行為を許す、歪んだ業界構造の遠因ともいえる。
それを解消することは大切であることはわかっているが、今の自分には良薬が思いつかないのがもどかしい。

また、人材流動性が低い、キャリアの方向性が見えないということも取り上げている。
> 「優秀な人がいる大企業が流動性が乏しい」と繁野氏は指摘する
と本文にはあるが,それはある意味必然と私は考える。
大企業において人材流動性が低いのは、終身雇用・年功序列(ICT産業では必ずしも当てはまるとは限らない)の制度を維持していることが多いのが、理由の1つだろう。
大企業にいれば、終身雇用の末に定年退職すれば、数千万円の退職金や生活に困らないだけの企業年金を得られる。
一方、大企業から他の企業へ転職したときは、仮に給与水準が上がっても、給与には現れない福利厚生を失うことを考慮に入れる必要がある。
退職金なども含めた生涯収入を考えると、転職は必ずしも得策とは言い切れない。

ただ、上で書いたことはあくまでも枝葉に過ぎない。
本質は本文の言葉を借りると「技術が細分化し、その変化が速い」状況にあるといえる。
ゆえに、教育が追いつかない、あるいは会社で必要な技術のキャッチアップも追いつかない、なんて状況もある。
そのような状況であっても、同時に基礎的な技術も磨き続けなければ、ICT業界の中で生き残るのは難しい。
加えて、技術の変化が速いがゆえに、1年前に思い描いていたキャリアパスと今考えるキャリアパスの間が大きく乖離してしまう可能性も、否定はできない。
そういった技術細分化の流れに対応すべく、IPAではITスキル標準などを公開している。
スキル標準があることに越したことはないが、一方で私のblogの「手段と目的を履き違えないのは当たり前」(http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post-7144.htmlでも書いたとおり、スキル標準の枠に囚われすぎてもいけないことは、肝に銘じる必要がある。

記事の最後では、教育にお金をかけていないことを問題視しており、「日本の情報サービス企業の教育投資は売上高比で平均0.23%(情報サービス産業協会基本統計調査2006年度版、参考記事)」であることを示している。
これは少なくともインド(5%)より低いとのこと。
ろくに教育もされないのであれば、尊敬されるに値するだけの知識や経験を積むことも難しいだろう。
教育が促されないことは、長い目で見れば成長や進歩を滞らせる原因となる。
こうなっては手遅れである。

さらに、本文では繁野氏の「ジェネラリスト指向でプロ人材への評価が低い」「(ユーザー企業の IT部門は)本業とは異なる専門家集団で社内的な地位が低い」などの指摘を取り上げた。
加えて、生産性の悪い人ほど売り上げが上がることに触れ、優秀な人材の育成には産業構造を変える必要がある、との繁野氏の意見を取り上げている。
産業構造には「ゼネコン体質」も含まれるだろう。
そう考えると、歪んだ産業構造は人材育成までも歪め、また優秀な人材を育てられない、また呼び込めない、そして産業構造がまた歪む、……という「負のスパイラル」を作り出す原因の1つともいえる。
ただ、私は産業構造の変化も大切だと考える反面、大学のコンピュータサイエンス(情報工学、計算機科学、……)系の学部、さらにICTやコンピュータサイエンスの専門学校で実施される教育の内容を変えていく必要があるとも考えている。
そして、産業界の言いなりにならない程度に教育カリキュラムを編成できれば、よい人材が育つ土壌が豊かになり、長い目で見ると日本にプラスとなるだろう。

とはいえ、教育も含め、自分のキャリアは自分で責任を持つことは当然ともいえる。
何事も当たり前のことを当たり前にやる、それだけでもキャリアパスを含め、道は開けるはずだ。

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