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March 2009

医療方法特許の功罪

3/17付け日経夕刊の記事。
・手術・投薬方法を特許に 政府検討、法改正の柱に
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20090317AT3S1400G17032009.html

上の記事では概要しか触れられていないが、新聞の元記事では日本とアメリカの特許制度の違いがわかる表なども載っている。

記事によると、手術や投薬方法などの特許、いわゆる「医療方法特許」はアメリカでは50年以上前から認められているという。
一方、日本では「産業上利用することができる発明」、つまり医療は産業ではないため、認められていないことにも触れている。
また、これらの未認可が医薬品会社の国際競争力や(特許料?)収益に影響を及ぼしている旨の記述があり、日本国内医薬品トップのタケダですら世界で約20位でしかないことも書かれている(このあたりうろ覚え)。

日本における医療方法特許導入の動きは、21世紀に入ってからのようである。
2007年に書かれた「欧州承認で岐路に立たされた日本の『医療方法特許』」(*1)の記事によると、日本では2002年より医療方法特許を導入しようという動きがあった一方、2006年にはヨーロッパで医療方法特許が認められたという。

*1: 欧州承認で岐路に立たされた日本の「医療方法特許」
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz07q4/547916/
http://chizai.nikkeibp.co.jp/chizai/etc/20071011.html

ヨーロッパでアメリカほど早く導入が進まなかった理由は、倫理的な問題のようである。
かつてはヨーロッパも日本同様、「医療は産業ではない」スタンスであった。
やがて方針を転換したが、それでも前述の通り倫理的問題を重んじ、すぐには医療方法特許を認めなかったようだ。

医療方法特許については、*1にある「(1)全国民が医療を受けられる『医療のフリーアクセス』や患者と医者の裁量権が守られない懸念がある、(2)特許保護による医療費高騰の恐れがある」はもっともであり、一方で「医療分野における日本の国際競争力が低下してしまう」にも説得力はある。
(「医療分野における日本の国際競争力が低下してしまう」については、医療方法特許を認める国なら日本企業であっても申請は出来る、などの理由で懐疑的な見方もある)

記事では「医師の医療行為が特許侵害にあたらないとの例外事項を規定」した上で認めるべきだ、と書かれている。
これは、「知」的ユウレイ屋敷の中の人いわく、当然であり(命の重さには代えられない)、また欧米でも特許法に織り込まれ、少なくとも知的財産法の世界では一般的な認識とのことである。
加えて、医療方法特許は関連する商品(分野)の発明のインセンティブにもなりうるという。
このやり方なら、医療をはじめとする分野において、日本の国際競争力を高めることにつながり、賛成できる。
日経の記事でも書かれているが、それが「患者のため」でもある。

一方で、上のやり方が認められない場合、医療のフリーアクセスの観点では問題がある。
高額なライセンス料による医療費高騰を招きかねないからだ。

医療方法特許については、欧米など他国の現状も踏まえつつ、医療関係企業のやる気を引き出す申請制度とし、よりよい医療の提供につなげ、医師や患者にとってプラスとすることが大切であろう。

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ただ、「産業上利用することができる発明」ではない医療方法特許を認めるのであれば、例えば今後は次のようなものも特許になりうるか。

  • F1ドライバーやモトGPライダー並みのテクニックで走れる、自動車やバイクの運転方法
  • ギター早弾きのような楽器演奏方法(エアギターも?)
  • メイク方法

人事部の明かす裏事情

有力人事部の告白~大異変「お金、出世、採用」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090319-00000301-president-bus_all

匿名だけに、赤裸々に裏事情を暴露できるのかも。
いろいろな見方があって参考になる。

バスケ・日本リーグとbjリーグが統合?

日本リーグとbjリーグの11年統合目標
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2009/03/12/08.html

やっと日本のプロバスケットが望ましい方向へ進みそうだ。
(日本リーグもbjリーグも、ここしばらく見ていないのだけど……)

ドコモがブランド変更で失ったもの

たまたまこんなblog記事を見つけた。

・DoCoMoどうした?
http://designist.net/blog/archives/2008/08/docomo.html

グッドデザイン賞の審査委員長などを務めた中西元男氏のblog。

「最近のロゴデザインにおける美的品質の低さ、コーポレート・ブランド戦略の喪失、一体どうなっているのでしょう?」で始まり、世界トップ3のブランド力を持つIBMやコカ・コーラと対比し「わが国企業の新ブランド導入や変更を見るに、デザインレベルやロングライフなデザイン力に疑問を抱かざる得ない造形品質が多くなっているのは残念」、「どう見ても変える必要もないのにデザイン変更が行われていると思える事例の新ロゴが散見される現実も、納得できない」と書いている。
そして、ロゴデザインの前提として

  • 企業の使命や存在価値をどこに求めようとしておられるのか?
  • 業種業容イメージをどう表現したいと考えておられるのか?
  • 将来の事業展開方針は盛り込まれているのか?
  • マークやロゴなどに企業のマーケティング&マネジメントのツール(道具)としての役割をどう与えようとしておられるのか?
  • 競合他社とのイメージポジショニング(地と図の関係)をどう築こうとされているのか?
  • 当該企業のDNAは確実に継承されているのか?

の点を挙げ、「歴史的に見ても秀作と呼ばれているデザインやブランドの名品には、優れた造形的完成度とそこから発せられる快い緊張感が醸し出されている」と書いている。

そして、blogの核心部である、自ら(中西氏が設立したPAOS)がかかわったNTTドコモのブランドデザイン変更について述べている。
blogでは、NTTドコモ(DoCoMo)のブランドが決まった経緯、「複数候補提案の中から最も個性的とも言える『DoCoMo』を選ばれた決断には、提案者側であるわれわれも驚きましたし、そのチャレンジ精神に敬意を抱きました」の意見、そのネーミングに負けない「デザイン表現案も極力個性的で先進性に溢れたもの」を出したことが書かれている。
さらに、「DoCoMoとは重要な意味を持つ変革型のフィロソフィブランドであるとの認識を持ち、開発作業にあたった」、「第一に優先されるべきはユーザーであり、通信のインフラ産業としてDoCoMoは何よりも優れた市民企業でなければならないとする視点」についても説明がある。
中西氏の"DoCoMo"に対する思い入れの強さが伝わってくる。
それだけに、「優れたロゴタイプは思想の凝縮」は至言、と前置きした上で、DoCoMoは「ネーミング的にも表現的にも『フィロソフィ・ブランド』であった」、「『いつでも、どこでも、だれとでも』のコミュニケーション新時代をシンボライズ」したのに対し、新デザインは「重要な長期戦略や経営テーマは一体どのように考えられていたのでしょうか」と疑問を投げかけている。
なによりも次の辛らつな3つの文が、すべてを物語っている。
「新ロゴへの変更理由や『新ドコモ宣言』を見ると、『より顧客に近い存在』とか『顧客との絆』『顧客の声をしっかり受け止め』といった、何を今さらというか、1991年当時よりもむしろ時代遅れの言葉が並ぶのには、かなりのオドロキです。これが果たして社会的責任も大きい情報化時代を代表するトップ企業の発信すべきコンセプトでしょうか。なぜ、もっと高邁な精神を頂点とした品格あるアイデンティティを謳い上げられないのでしょうか」
「docomoの場合、それ以上に問題視すべきは、せっかくのフィロソフィブランドでありコーポレートブランドを単なるキャンペーンブランドもしくはセールスブランドへと変更してしまった点にあるのではないでしょうか」
「確かに時代や環境に合わせることは重要ですが、docomoは今日のわが国の課題というか、真の変革を必要としている時代を近視眼的に読み違えたのでしょう。王者はいくらでも王者らしい戦いが出来るはず、存在価値を示せるはずなのにと、15年築き上げたブランド価値損失に走った行為に遺憾の念を禁じ得ません」

NTTドコモのロゴ変更については、私も以前「ドコモがロゴを変更」で取り上げている。
そこで私は「表記をすべて小文字でdocomoとし、色もNTTやそのグループ企業でよく使われる寒色系、特に青系のカラーをメインとせず、赤色を使ったことに驚いた」と書いたが、賛否は書いていなかった。

中西氏の記事だけ読めば、ブランドの変更にあたり当初のブランドの持つ哲学をないがしろにしたようにも受け取れる。
ただ、変更の真意は他にもあるのだろう。
その鍵を解くべく、ドコモの当時のプレスリリース(http://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/page/080418_00.html)を読んでも、これについてはなんともいえない。
ドコモが夏野剛氏いわく「ビジネス的な見地から考えてきた」(http://ascii.jp/elem/000/000/150/150829/)iモードをきっかけに、利益至上主義へ舵を取り、やがて業績が頭打ちとなった現実が、ブランドの変更につながったことは想像に難くない。
そのブランドの変更において、ドコモは変えるべきところと守るべきところを間違えてしまったのかもしれない。
だから、中西氏のように酷評する方もいるともいえる。
そして中西氏の記事を読む限り、ドコモのブランド変更は失敗だったと書かざるを得ない。
一ユーザとしては、ドコモのチャレンジ精神までも失われないことを祈るばかりだ。

PS 上で引用した「夏野剛氏が退社のワケを告白」(http://ascii.jp/elem/000/000/150/150829/)にある、「技術を使うことが目標になっていては最悪。何かをするために技術を持ってくるのが本筋」は賛成できる。これは言い換えれば「手段と目的を履き違えるな」と同義である。ただし、「何かをする」にあたり、過度に利益追求へ焦点を当てると、いずれしっぺ返しを食らうだろう

新しいかたちの商標

「ピポピポ」「ハ~イ」…導入が検討されている“音の商標”って何?
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090223/1023993/
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090226-00000001-trendy-ind

「文字・図形などの視覚的に表示(識別)できるものしか登録商標として認めていない日本の商標法における商標の概念を見直す時期に来ている」(堤信夫・久光製薬法務部長)

今まで商標というのは、視覚的に識別できるものだけが登録できたようだ。
最近の日本では立体商標といい、キャラクターなどの立体も商標として登録できるようになった(Wikipediaによると日本では1997年から認められた)。
立体商標の第1号は、ペコちゃんやケンタッキーのカーネル・サンダースなど。
ただ、立体商標も「視覚的に識別」という解釈を超えるものではない。
日本において「五感」のうち視覚以外の4種、すなわち聴覚(音)、嗅覚(におい)、触覚(モノの手触り)に分類できるものも商標として登録できるようにしようという動きがあるようだが、それは昨年(2008年)6月に日経で報道があって知られるようになるなど、ここ最近の話である(味覚はどうなのだろうか)。
http://www.iip.or.jp/summary/pdf/detail01j/13_01.pdfによれば、海外ではすでに音なども商標として認めている国がある。
それに比べると、日本の動きは遅い、と上っ面だけ見て批判するのはたやすい。
ただ、現実はさまざまな障壁があり、導入検討が遅れたのだろう。

もっとも、音などが商標として認められる動きは1990年代になって世界各地で盛んになったようで、特許の概念としては視覚的なものと比べて歴史が浅いもののようだ。
それでも、サウンドロゴについては日本でも森永やソニーなどが以前から積極的に取り入れていたので(そして一緒に流れる映像にも力を入れていたようで、ソニーは1980年代、サウンドロゴの導入とともに多額のお金をかけ、球(点)で構成された「S」の文字のCGを作成したという)、認知度は高いだろう。
※サウンドロゴにおける考察は、以下に参考になることが書かれている。
新しいタイプの商標、導入を検討へ
http://chiteki-yuurei.seesaa.net/archives/200806-1.html

音のほか、においなども商標として登録できることは、権利の侵害を防ぐ上では大切なことである。
だが、前述の通り、海外において商標を音や映像などに広げ始めたのは最近である。
「耳コピ」できる音楽はともかく、においなどはどのようにして権利を侵害しているか判断が難しいというのが、その理由かもしれない。
(なお、色だけを商標として登録するのが困難な理由の1つも、権利侵害の判断が難しい点にあるようだ)
においならどの成分をどの割合で調合したか、においに必要な成分を生成した方法は何か、などがわかればいいのだろうけど、それはにおいそのものの判別(においならそれが商標の侵害有無の判断基準の1つ?)よりも生産方法などになり、従来のように(?)特許として保護されるのが適切かも知れない。
あと、音楽であれば著作権で守られており、サウンドロゴもある意味「音楽」だろう。
だから、サウンドロゴを商標で守れば多重(過度)の保護(独占排他権の抵触・侵害と書くのが正しい?)になるのでは、というのが理由で、商標として保護されていなかったかどうかは定かではない(いわゆる「動く商標」であれば、「音楽」を「映像」に置き換えれば同じことか)。
(法律的な解釈に関して抜けがあれば補ってください)

商標を「視覚的に識別できる」という観点から見ると、「動く商標」、さらに広げると映像も含めたVI(ビジュアル・アイデンティティ)は、1990年代以前でも商標として認められていても不思議ではない。
しかし、そのころはまだ企業もTVでの動くロゴの意識が低い、法解釈が進んでいなかった(?)などの理由があり、「動く商標」などの導入検討が遅れたのかもしれない(もっとも、後者は著作権など他の権利との兼ね合いもあるだろうけど)。

派遣切りの時代では解雇されないだけマシ?

「解雇されないだけマシ」「長時間労働こそ鑑」――上司が陥る10の勘違い
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0903/05/news098.html

クビを宣告されるのではなく、働ける喜びを感じるとともに、会社から「辞めないで欲しい」と言われるような存在にならなくては。

(ネタ)国立大の統廃合で衝撃的私案

数年前から国立大は統合が実施されているが、ネタとしてこんな統合案を出した人が。

・国立大学の統廃合私案
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090303

記事よりもコメントのほうが面白い、という人がいるかも。

繰り返すが、あくまでも「ネタ」(統廃合の対象になった大学出身の人は気分を悪くしないように)。
結果は「88校が27校に」。

ただし、廃止・統合基準がいい加減過ぎる(それが「ネタ」と書いた理由)。
あと、大外大の統合(→阪大)を知らないなど、公開資料を鵜呑みにし過ぎ(間違った資料を公開する文科省も悪いが)。
大学院に関しては、「『4年制大学の教育機関』としての統廃合案であり、研究機関としての大学院については別途検討」なので、まったくあてにならず(特に大学院のみ、もしくは重視の大学)。

なお、上の統合案は、国立大学は真のエリート養成校だけにする(それがよいかどうかは別)、という観点ならば一部賛成。
(エリート養成校として残すのは、http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51184470.htmlいわく「保守的で退屈」かも知れないが、大学院も含め旧帝大+αが理想か。+αは母体・統合対象大学の業績や地域・人口バランスを考慮して決定、10から20大学)
国立大学の存在意義を考えるなら反対(ただし、国立大統合の余地はまだある)。

あと、公立や私立大学はどうなのだろうか。
私立の場合、数が尋常ではないので、国立以上にまとめるのが大変か。
# 上のblogの人なら、残すのは早慶だけ、とかになったりして

PS 以前、医療(~費削減)のためには「過疎地から人々を追い出せ」と主張される方がいたが、大学にも当てはまる?(それがよいかどうかも議論の余地がある)

「失われた10年」と医薬品のネット販売

激動のIT革命10年で学んだ人、学ばなかった人
http://it.nikkei.co.jp/business/column/natsuno.aspx?n=MMIT33000025022009

夏野氏は、NTTドコモへ入社した1997年を「大企業はつぶれないという神話が崩れ、日本が大きな転機を迎えた年」と振り返る。
その後、記事にあるように携帯電話は大きく進化していった。
ITが変化した10年については、(国民生活の)「変化の中心にいることができたのは、本当にラッキーなことだった」と述懐している。
一方で、同時期は「失われた10年」「ITバブルとその崩壊」の時期ともオーバーラップする。
前者の説明は記事の本質ではないので省くが、後者はまさに10年でITがジェットコースターのように大きく揺れ動くが如く変化したことを示す、重要なエピソードといえる。
ITが変化した10年は、「失われた10年」と引き換えに得たものかもしれない。

そして、「日本は、この10年間で何かを学んだ人とまったく学んでない人に、あるいは学習した会社・組織と学習していない会社・組織に完全に分かれた気がする。この10年間で、経済と社会は全く異なるステージに完全移行したと思う」と持論を展開する。
会社・組織が「完全に分かれた」はややオーバーだろうが、経済と社会が10年前と今では異なるステージにいることは確かだろう。
特に今現在は。
「IT革命が私たちにもたらした情報流通スピードの高速化、社会変化スピードの速さ、多種多様なプレーヤーの相互関係から生まれる複雑さに、過去のやり方で対応しようとしても無理である」も、耳を傾けるべき点はある。
そして夏野氏は、10年前と今の前提が異なる中で、「学んでない人々、懲りない人々は、未だに昔のやり方・考え方を持ち出すことがある」と切り捨てる。

過去・歴史に学ぶべき点は多い。
それは10年前であっても、だ。
だからといって、過去に固執・拘泥することはよくない。
旧態依然としたやり方が常に通用するとは限らないからである。

一方で、新しいものが必ずしもよいわけではない。
「昔のやり方・考え方を持ち出す」ことに夏野氏は否定的だが、状況によっては過去からの積み重ねで得られたやり方や考え方のほうがよい場面もあるだろう。
「過去の過ち」を二度と犯さないためにも、重要な点だ。
中には、「今起きていることはすべて過去にあり、論語など歴史書を見ればわかる」と豪語される方もいる。
加えて、「ソフトウェア職人気質」という本でも、「職人」は安定したテクノロジを使う、ということが書かれている。
要は、新しいものに安易に飛びつくことを戒めているのだ。
(これもケースバイケースではあり、時には新しいものを選んだほうがいいこともある。古いもの、新しいもの、それぞれに優れた点があり、使い分けることが肝要ではないだろうか。また、新しいものを否定し続けるようでは進歩が止まる)

ただ、「携帯電話のビジネスモデルへの総務省の介入も「今さら感」が拭えない」については同意できる箇所もあるが、一方で介入前で主流の「通話料で携帯電話本体の値引きを回収する」という、長く携帯電話を使う人たちにとっては歪んで見えるビジネスモデルがよいとも思えない。
(国の強引な介入がよかったかどうかは別問題)

後半では、夏野氏は大衆薬のネット販売規制について主張しているが、これはちょっと乱暴だろう(薬学が専門ではない夏野氏が、薬について無知な部分があるのは否めない。もっとも、それは私にも言えるが)。
「大きな社会的便益の逸失につながる」のは確かだが、ネット販売の行きすぎはよくない。
社会的便益云々を過度に主張することは、市場原理主義者、守銭奴や金の亡者のやることである。
また、検討会のメンバー構成の偏り、「前世紀の遺物」にしがみつく旧態依然としたルール決定には、指摘どおり確かに問題がある。

だが、ルール検討の過程では、薬害の被害にあったメンバーが安全性への疑問を投げかけるなど、耳を傾けるべき内容もある。
多くの国民の意見を取り入れることは大切だが、一方で行き過ぎた大衆迎合もまた問題で、少数派の意見もある程度は尊重すべきである。
それらを果たす役割が、有識者の検討会にあるのではないか。
だからこそ、有識者メンバーの構成は大切ではある。
私の主張は、「医薬品のネット販売に潜む問題」(http://danpaleta.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-1ca6.html)に書いたので、そちらも読んで欲しい。

「すべての商品の安全性を国で審査させることは不可能だし、もしやらせたら、そのためのコストは膨大になるだろう」のは確かだ。
国が出来ることには限界があり、また政府における無駄なコストを削減することは絶対にしなくてはいけない。
だが、世の中にはコストに変えられないものもある。
医療など、人の命にかかわるものだ。
その見極めは必要だろう。
(だからといって、コスト削減の努力を怠ってはいけない。コストも含め、日本医療はさまざまな問題を抱えているが、コスト削減と質の向上という二律背反しているように見える問題でも、二兎を追う努力は必要だ)

夏野氏は、時代が変化する中で「自分のしていることが後の世代に評価されると思いますか、本当に自信があるのですか。未来を生きていく自分の子どもに、自分がしていることを堂々と伝えられますか」と書いている。
この行動基準は大切なことだ。
私もこの点はまだ未熟なので、自分の行動が未来の人たちに評価されるように努め、意識したい。
ただ、医薬品のネット販売に関しては、あえてその言葉を夏野氏にそのまま返したい。

最後に、夏野氏は記事の前半で「官製不況の責任は誰が取るのか」と不況の責任が国にあるように書いていながら、後半で「日本の消費者の中には何でも国のせいにする人もいる」と書いているが、真意は……

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